院長(父)のカイロとの出会い1
2009年05月17日
WHO国際基準のカイロドクター at 02:35 | Comments(0) | 骨休め
LFカイロプラクティック外来センターの院長は、私のカイロの師でもあり、私の父です。
少し、父のことを紹介します。
私の父はとにかく努力家です。51歳の現在でも一日3~4時間ほどしか寝ません。もうかれこれ25年ほどは今のパターンです。大学卒業後は、大手化粧品会社に入社して転勤族生活を10年していました。
いわゆる脱サラ組です!
このカイロプラクティック業界へ脱サラしたのは、大学時代に椎間板ヘルニアで苦しめられたからです。大学の4年間は、自分でアルバイトして学費を作り、多いときでは一日に2~3つのアルバイトをしたそうです。
それは当時、自分の家が裕福ではなく、高校卒業後は母親を助けるために就職するつもりだったようです。母子家庭だったのです。ところが、担任の先生と進路指導の先生が「大学はアルバイトしながら行ける!」とあっさり言ったものだから、その言葉を真に受けて進学を決めたそうです。以外と単純ですね^^;
そんな大学への進学決定だったため、4年間休まずアルバイトに明け暮れ、それこそ50種類以上のアルバイトを経験したと言ってました!しかし、卒業は単位ギリギリでの卒業だったと笑っていました。一科目でも落とせば留年です。
その大学生活の中で4年生の時に、無理が祟って腰を痛め、病院では椎間板ヘルニアとの診断だったようです。それこそ痛みが酷く、電柱から次の電柱まで歩けなかったそうです。痛みとシビレが、腰からお尻、ふくらはぎに掛けて強烈な電気がビリビリと走り、冷や汗を流していたと言ってました。
このことを良く知っているのは、大学時代の友人ぐらいらしいです。余り他言したことが無いと言っていました。
その当時の痛みの辛さが、今の勉強家で努力家である父の背景にあるような気がします。
病院に通ってもまったく回復の兆しも無く、困り果てていたとき、友人から勧められたのがカイロプラクティックです。当時はカイロプラクティックと言っても、何のことかも分らず、誰に聞いても知っている人がいなくて街中で看板さえ見つけることありませんでした。もちろん電話帳にも載っていなかったそうです。
そんなカイロプラクティックに数十回通って、やっと痛みが出なくなったようです。まさに救いの神と申しておりました。しかし、当時は誰も知らない方法なので説明を受けても意味も分らず、背骨を毎回ボキッと矯正されるだけで、、、こんなで本当に治るのだろうかと心配したそうです。
ところが、病院への通院をやめてカイロに通い出してからは、日毎に痛みが出なくなり、背骨や骨盤の正しい位置の説明をなんとなく理解できるようになったそうです。治療が進むと同時にカイロプラクティックにも興味を持ち始めたそうです。
その後、大学を無事に卒業、就職と同時に、カイロプラクティックの勉強も開始しました。解剖学の固有名詞を覚えるために仕事のセールス車にいつも医学書を乗せていたそうです。しかし、カイロプラクティックを教えてくれる所は今のように存在せず、大半の休日は講習会やセミナーに参加です。
その後、カイロプラクティック発祥の地にあるカイロの名門大学(パーマー大学)を最優秀賞で卒業されたカイロドクター先生に出会い、2年間通ってある程度修得!昔は今のように正式なカイロの学校はなく、あっても一時的で参加費の高い講習会やセミナーばかりで、いつもカイロの情報に飢えていたようです。
また当時のカイロを教える先生方も勉強中の方ばかりで、カイロの翻訳本も5~6冊ぐらいしかなく、実際の勉強会でも背骨や骨盤の矯正のみを主に教えていたそうです。
その後、カイロドクター先生の学校を卒業後も、先生を困らすほどにあまりにも熱心なため、その先生よりパーマー大学に進学しないか?と推薦の話があったそうです。父は何がなんでも留学すると考えましたが、その当時はすでに結婚して子供も生まれ、母もアメリカは怖いと反対したそうです。
また、その状態で留学した場合、昔の金額で最低でも3000万ほどは必要だったようです。私たち子供も居ましたので家や学校の問題、それに生活費です。これは約20年前の話です。
どこをどうあがいても3000万円という大金はあるはずがなく、仮にあっても英語が難しい上に、カイロ大学に入学するための単位を取るのにもプレコースで1年(当時)、入学後は最低4年掛かります。ストレートで卒業しても4~5年位掛かるのです。
カイロプラクティックをご存知無い方は、「カイロプラクティックとは」をお読み下さい。
続く、、、、
少し、父のことを紹介します。
私の父はとにかく努力家です。51歳の現在でも一日3~4時間ほどしか寝ません。もうかれこれ25年ほどは今のパターンです。大学卒業後は、大手化粧品会社に入社して転勤族生活を10年していました。
いわゆる脱サラ組です!
このカイロプラクティック業界へ脱サラしたのは、大学時代に椎間板ヘルニアで苦しめられたからです。大学の4年間は、自分でアルバイトして学費を作り、多いときでは一日に2~3つのアルバイトをしたそうです。
それは当時、自分の家が裕福ではなく、高校卒業後は母親を助けるために就職するつもりだったようです。母子家庭だったのです。ところが、担任の先生と進路指導の先生が「大学はアルバイトしながら行ける!」とあっさり言ったものだから、その言葉を真に受けて進学を決めたそうです。以外と単純ですね^^;
そんな大学への進学決定だったため、4年間休まずアルバイトに明け暮れ、それこそ50種類以上のアルバイトを経験したと言ってました!しかし、卒業は単位ギリギリでの卒業だったと笑っていました。一科目でも落とせば留年です。
その大学生活の中で4年生の時に、無理が祟って腰を痛め、病院では椎間板ヘルニアとの診断だったようです。それこそ痛みが酷く、電柱から次の電柱まで歩けなかったそうです。痛みとシビレが、腰からお尻、ふくらはぎに掛けて強烈な電気がビリビリと走り、冷や汗を流していたと言ってました。
このことを良く知っているのは、大学時代の友人ぐらいらしいです。余り他言したことが無いと言っていました。
その当時の痛みの辛さが、今の勉強家で努力家である父の背景にあるような気がします。
病院に通ってもまったく回復の兆しも無く、困り果てていたとき、友人から勧められたのがカイロプラクティックです。当時はカイロプラクティックと言っても、何のことかも分らず、誰に聞いても知っている人がいなくて街中で看板さえ見つけることありませんでした。もちろん電話帳にも載っていなかったそうです。
そんなカイロプラクティックに数十回通って、やっと痛みが出なくなったようです。まさに救いの神と申しておりました。しかし、当時は誰も知らない方法なので説明を受けても意味も分らず、背骨を毎回ボキッと矯正されるだけで、、、こんなで本当に治るのだろうかと心配したそうです。
ところが、病院への通院をやめてカイロに通い出してからは、日毎に痛みが出なくなり、背骨や骨盤の正しい位置の説明をなんとなく理解できるようになったそうです。治療が進むと同時にカイロプラクティックにも興味を持ち始めたそうです。
その後、大学を無事に卒業、就職と同時に、カイロプラクティックの勉強も開始しました。解剖学の固有名詞を覚えるために仕事のセールス車にいつも医学書を乗せていたそうです。しかし、カイロプラクティックを教えてくれる所は今のように存在せず、大半の休日は講習会やセミナーに参加です。
その後、カイロプラクティック発祥の地にあるカイロの名門大学(パーマー大学)を最優秀賞で卒業されたカイロドクター先生に出会い、2年間通ってある程度修得!昔は今のように正式なカイロの学校はなく、あっても一時的で参加費の高い講習会やセミナーばかりで、いつもカイロの情報に飢えていたようです。
また当時のカイロを教える先生方も勉強中の方ばかりで、カイロの翻訳本も5~6冊ぐらいしかなく、実際の勉強会でも背骨や骨盤の矯正のみを主に教えていたそうです。
その後、カイロドクター先生の学校を卒業後も、先生を困らすほどにあまりにも熱心なため、その先生よりパーマー大学に進学しないか?と推薦の話があったそうです。父は何がなんでも留学すると考えましたが、その当時はすでに結婚して子供も生まれ、母もアメリカは怖いと反対したそうです。
また、その状態で留学した場合、昔の金額で最低でも3000万ほどは必要だったようです。私たち子供も居ましたので家や学校の問題、それに生活費です。これは約20年前の話です。
どこをどうあがいても3000万円という大金はあるはずがなく、仮にあっても英語が難しい上に、カイロ大学に入学するための単位を取るのにもプレコースで1年(当時)、入学後は最低4年掛かります。ストレートで卒業しても4~5年位掛かるのです。
カイロプラクティックをご存知無い方は、「カイロプラクティックとは」をお読み下さい。
続く、、、、